『自分は~しているのに』思考

自分がつらいのに、それでも誰かの代わりに頑張ってしまう人は多いと思う。可能なら休養が先決。けれどそれが難しいならば『心地よい環境づくり』をしていきたい。これは本人にしかできなこと。今回はそんな『代わり』がつらい自分についての話。

 

 

聞こえるSOS

『自分は~しているのに』という思考は心から環境へのSOS。『自分のため』であり『周りのため』でもあるという効果が複雑に絡み合っているものに起こりやすい。特に家事は誰かがやらなくてはならないが、周りがやらない場合『誰もやらなかった場合』の不利益が自分にも降りかかる。そういう意味でこの思考に陥りやすいと経験上思う。けれども、代わりにやることで周りは『自分がやらなくてもやってくれる人がいる』と考え、状況はさらに悪くなる。

 

 

それは『自分』なのか

本来は自分で決めて行動するものである。だが、それが不本意によるものだと『自分なのに自分ではない』と感じる。例えば皿を洗うのは自分で考え、決め、行動に移す。でもそれは『やりたいから』ではなく、『やらざるを得ないから』である。今は手が荒れていて代わってほしいけれど、自分がやるしかないからやるというような。

 

 

人に分ける前に自分を満たす

我々は誰かのために何かをすることを日常的にしてきたと思う。けれど、それは自分が満たされているときでなければ不可能なのである。自分の喉が潤っているときでなければ人に水は与えられない。たとえその場では与えられても後に残るのは僻みなどのネガティブな感情である。それは枝葉を広げ、やがて自分では対処できない大きな問題になる。

 

だからこそ、『自分を満たす』という行為が大事になってくる。これは『自分ではないもの』から『自分のもの』に変えていく作業。今の環境は必ずしも自分が選んだものではないかもしれない。けれど、一度嫌なものが目に付くと粗さがしに没頭してしまうのもまた事実である。簡単ではないけれど、いいところや好きなところを探す。人間を相手にしてこれをするのは難しい。だからまずは環境に対して好きなところを探すのだ。きれいなものが好き、ナチュラルなものが好きという風にシンプルなことから。

 

 

『完璧』は存在しない

私は何においても完璧にこなせない。だから人にもそれを求めないようにしている。だが、気を抜くと『あれができていない』『これが違う』と感じてしまう。完璧という、『存在しないもの』を人にも、そして自分にも求めないように日々心掛けているし、失わないでいきたい。