つらい時は『配分』を考えてみよう

人は何かに悩んだり怒ったりする場合、強い依存や執着があると考えられる。依存や執着そのものは生きる上で必要だ。だが、つらくなるほど強いものを抱えているときは一度見直すべきだ。

それらを手放すことは容易ではない。そのため今回はエネルギー配分について考えていく。

 

 

依存先=居場所

『依存先の分散』を大切にしている。これを人に話すと「依存なんてしない方がいい」と言われることが多い。けれどここでいう『依存』とは身を削るようなものではなく、『居場所』と言い換えられるようなもののことである。例えば読書好きの顔、アニメ好きの顔、映画好きの顔など。

 

依存、執着の苦しみは『失う怖さ』『独りぼっちになってしまう怖さ』からくるものだ。ここでは『物事に対する依存』と『人に対する依存』に分けて考えていく。

 

物事に対する依存

先ほど『ここでいう依存は身を削るものではない』と言った。だが、依存先が一つである場合苦しみが生まれることもある。例えば先の例でいうと、読書だけを好んできた人がある時読書に対しての興味を失ってしまうとする。その時、その人はすぐにはほかの趣味を見つけることができない。

 

何が言いたいかというと、複数の依存先を持っていれば『1つの依存先を失っても問題ない』ということである。読書も映画も好きな人であれば、読書に対しての興味を失っても映画という楽しみが残っている。だが、読書だけを好んできた人は興味を失っている間は虚無というつらさを抱えることになる。

 

人に対する依存

依存先が1つであるとそれが強い執着になる場合も多い。友人が1人で、趣味も愚痴も悩みもすべてその友人に話しているとする。友人にとってはそれが負担になる時もある。あるいは、友人と疎遠になった際に話せる相手がいないという孤独感にさいなまれることになる。これまですべてを話してきた友人だからこそだ。

 

この場合、趣味仲間、愚痴を言い合える友達、深い悩みを話せる友人など様々な居場所を作っておくことで『すぐに失う』ということは避けられる。もちろん、友人とはほかの人に代えられるものではない。そのため、失った場合寂しさは残ることもある。

 

物事でも人でも依存先を増やすことで失う苦しみや恐怖は軽減される。

 

依存先を増やす、エネルギー配分を考える

依存先を増やすのは簡単だ。世の中にはメジャーからマイナーまで趣味であふれている。また、ネットで考え方の似た人を探すことも容易だ。だが、すべてに全エネルギーを注いでいてはすぐに疲弊してしまう。本当に難しいのは、注ぐエネルギーを分散させることである。これは意識して癖をつけていくしかない。まず時間や頻度の制限をつける。そして自分に負担が軽く、そして満足いく配分を探していく必要がある。

健全なアドバイスを考える

私は人の話を聞くのが好きだ。それは勉強好きからくるものだと思っている。人の経験というものは目に見えない教科書のようなもの。しかし話を聞く機会が増えるにつれふと不安なことも出てきた。

 

今回は私が不安を感じる『アドバイス』について書いていく。

 

 

『アドバイス』になってしまう不安

私は『アドバイス』という言葉が苦手だ。だが、私の何気ない言葉に対して「なぎささんは丁寧にアドバイスしますね」とよく言われる。もちろん周りはいい意味で言ってくれている。だが、私自身は話を整理したり確認したりしているだけなので不安になる。それに対し「相手が救われてるならいいじゃない」とも言ってくれる人がいる。それでも独りよがりなことを言っていないか心配になってしまうのだ。

 

二種類のアドバイス

アドバイスには二種類あると考える。『人の心の中に土足で入ってきてかき乱す』だけの不健全なアドバイス。一方、アドバイスをもとに本人が納得できる決断にたどり着いたというような健全なアドバイス。前者と後者のアドバイスの違いは『相手を尊重しているか、否か』である。前者は相手を尊重しないがゆえに攻撃的になってしまうこともしばしばある。後者の肝は『相手が納得できる』という点だ。これは本人に委ねるほかないが、本人の悩みの本質をともに探るということが必要である。これが『尊重』だ。自分を尊重しない相手に自分の中身はさらけ出さない。

 

尊重そしてやっぱり尊重

相手を尊重するといってもそれは難しいものだ。毎度相手に「偉そうでしたか?」と確認していては気遣わせてしまう。私が気を付けていることは『受け止めること』である。相手の言葉に対していきなり否定しない。納得できなくてもまず「なるほど」と。それが互いを尊重することにつながる。

 

お互いに話せる空気を作り引き出し一緒に整理していく。そして出たいくつかの結論、手段の使い道は本人に任せる。私は最後に必ず「応援しています」の一言を添えて締めくくる。どんな方法で、どんな結果になっても応援している人がいることが支えになると、私は経験上感じるから。

 
 
 
 
 
 

苦しみに納得する

苦しみを抱えていないという人はいないだろう。人に説明できる苦しみから、なんとなく感じている苦しみまで多岐にわたる。苦しみの種類によっては一生付き合うものもあるだろう。私は苦しみとは世界を広げることによって軽減されることもあると考える。だが、苦しみの真っ只中にいる人に世界を広げることまで求めることはあまりにも酷である。

 

苦しみにも波があり、ふとある時ほんの少し心に余裕ができるタイミングがくる。

 

ここでは私が考える『苦しみとの向き合い方』について記していく。

 

 

箱で生まれる苦しみ

苦しみは執着から来ている。そして執着は小さな箱の中で起きている。小さな箱だから小さな声も反響して大きな声に聞こえる。だから無視できずつらくなる。それならば、箱を少しずつ大きくする。そしていつか必要がなくなれば箱ごと取っ払ってしまおう。頑丈に見える箱も展開図のように開くことができる。世界が広がる瞬間である。

 

納得して苦しみ、納得して手放す

苦しみを手放すのは容易ではない。だからこそ苦しんでいたのだから。そこで私は『納得』ということを大切にしている。

 

納得とはしばしば軽視されるがとても大切なことである。何かを決心したとして、いつか『でもあの時本当はやりたくなかった』と後悔しても取り戻せないことがあるからだ。生きる上で不本意なことは確かに多い。それでも気が向いたときに『納得して』向き合う。そして、『納得した』上で手放す。

 

この『納得』とは必要なプロセスなのである。苦しみがあったとして『自分が苦しむ必要はない。おかしい』と誰もが思うだろう。そしてそこで、『この苦しみは小さいころに理不尽に叱責された記憶とリンクしているのではないだろうか。それならばその傷を癒すことで今の苦しみも変わるのではないか』と苦しみに納得し近づいていていく。これはかなり勇気がいることである。だが、そうすることで結果的に自分の価値観だとか、苦しみへの向き合い方だとかに変化が起こる。

 

義務ではない

世の中には姿の分かる苦しみから不明瞭な苦しみまでたくさんある。向き合えるものについて納得できたら今度は手放す。苦しんだからこそ得たものは必ずあるのだから。大事なのは『できる時に向き合う』ということ。今向き合わなければならないわけではない。そして、絶対に向き合わなければならないものでもない。向き合わないことを選ぶのもまた人生なのである。

ゆるい制限で療養

療養生活の中で常に問いているものがある。

『今の自分は休めているか、否か』である。

 

本投稿では便宜上『上手い療養』『下手な療養』という言葉を用いている。あくまでも経験に基づく個人的見解で、他者の生活スタイルや療養の仕方は尊重されるものだと思っている。

 

今回はそんな療養の在り方について私が感じることを書いていく。

 

 

 

療養とはなんのためか

療養には上手い下手がある。体は休められても心は休められない人は多い。むしろ『休む』という行為がストレスになる場合もある。私はこのタイプだった。休んでいるときでも抱えきれないような罪悪感がこみあげて苦しかった。

 

経験上、気力体力精神力はそれぞれつながっていてバランスを保っているように感じる。どれかが崩れれば他も崩れてくる。そのバランスを保つ訓練が療養である。エネルギー配分と言い換えることもできるかもしれない。

 

制限の中での療養

上手い療養とはルーティンの中で過ごせていること。下手な療養とは自分に無理なものを課して過ごすこと。私も少し前までは後者だった。

 

自由が秩序の中で保たれるように、多少の制限があったほうが良い状態を保つことができる。ただ、その制限が精神をすり減らすものであってはならない。

 

ルーティンというのは『規則正しい生活』だ。同じような時間に起き、食事をとり、入浴をし、就寝する。ただその中でまだ自分にはハードルが高いものを無理にしてはいけない。無理に入浴しなくていいし、食べられるものを食べ、出られるときにベランダに出ればいい。

 

『規則正しい生活』と聞くと「朝起きなくては」と捉えがちである。私もかつてはそうだった。夕方に目覚めては聞こえない目覚まし時計にがっかりしたものである。主治医の方針でもあったが、『睡眠時間がとれているならいい』と思う。

 

療養における制限について、『時間』での制限ができないのであれば『タイミング』による制限が個人的には効果的だ。具体的には『7時に起きてラジオ体操』が難しいのであれば、『何時でもいいから起きたらまず寝たまま伸びをする』といったふうに。

 

ルーティンを築く

上手い療養は症状の改善に確実に近づいている。難しいのはそれを維持することだ。症状は天気や気温、状況の変化に左右されやすいからだ。また、療養が下手だからといってそれが悪いことではない。様々な療養を経て、自分らしいスタイルを築く。それがルーティンとなる。1つ1つの経験が引き出しになる。

『見守る』スキル

私は昔から相談を受けることが多かった。と言えば聞こえがいい。だがその実、「代わりにこれをしてほしい」と言われることの方が多かった。単純に相手のもやもやを整理することもあったが。前者のタイプと長くかかわっていても健全な関係は見込めない。今回はそのようなタイプとかかわるうえで、『見守る』というスキルの重要性を書いていく。

 

 

『見守る』とは

『見守る』という姿勢は人とより深くかかわるうえで大切である。ここでいう『見守る』というのは『困っているのにただ眺めている』のではなく、『自分で解決に向かわせる』ということ。釣った魚を与えるのではなく、釣り方を教える。解決のために代わりに何かをすることは本人のためにならず、むしろ本人が新たなことを学ぶ邪魔になる。自分に余裕を作るのもまた『見守る』スキルの効果だ。

 

見守らないことによる不健全な関係

『見守る』ことをせず口出しすると互いの意思を尊重することができない。

相手に考える意思があったとしても、口出しすることで『この人は代わりに決めてくれる、やってくれる』と思われてしまう。あるいは『自分でやっても間違えてしまう』という不安感かしれない。そうなると、その人は困っても解決を人に委ねるようになる。そして、本来は自分で考え決定することについて他人に委ねることで成長の機会を見失ってしまう。

当然ながら、こちらも時間や心の余裕がある時ない時がある。相手に割く余裕がないのに断れない場合、自分のことも相手のこともいっぱいになりどんどん疲弊していく。けれど相手はこちらを『解決してくれる人』と認識しているので決定を求めてくる。あるいは、口出しすることで相手のやる気を削いだり威圧感を与えることもある。

こうして自分で解決できなかったり、互いに疲弊するような不健全な関係ができあがる。

『見守る』ことの本当の効果は『本人に考えさせる』というところにある。本人が自分で調べ考え結論を出す。そこで初めて見守る側は「なるほどね」と整理・助言ができる。

 

安心が最大の力

『見守る』というスキルを持つことでお互いを守ることになる。『見守る』ということは線引き、そして自衛の1つであるからだ。本人がやるべきことと、周りがやるべきことは違う。また、それぞれの限界も違う。そのために、お互いの領域を明確にするのは大切なことである。

相手をのために何かすることが好きだ、という人もいるだろう。そういう人にとって、今回私が示しているやり方はもどかしいものだと思う。だが、助けてはいけないというわけではない。相手を認めたり、相手が次のステップに進めるように選択肢を提案したりするだけでいい。これで相手は安心感を得られるし、安心は最大の力になるからだ。

『自分は~しているのに』思考

自分がつらいのに、それでも誰かの代わりに頑張ってしまう人は多いと思う。可能なら休養が先決。けれどそれが難しいならば『心地よい環境づくり』をしていきたい。これは本人にしかできなこと。今回はそんな『代わり』がつらい自分についての話。

 

 

聞こえるSOS

『自分は~しているのに』という思考は心から環境へのSOS。『自分のため』であり『周りのため』でもあるという効果が複雑に絡み合っているものに起こりやすい。特に家事は誰かがやらなくてはならないが、周りがやらない場合『誰もやらなかった場合』の不利益が自分にも降りかかる。そういう意味でこの思考に陥りやすいと経験上思う。けれども、代わりにやることで周りは『自分がやらなくてもやってくれる人がいる』と考え、状況はさらに悪くなる。

 

 

それは『自分』なのか

本来は自分で決めて行動するものである。だが、それが不本意によるものだと『自分なのに自分ではない』と感じる。例えば皿を洗うのは自分で考え、決め、行動に移す。でもそれは『やりたいから』ではなく、『やらざるを得ないから』である。今は手が荒れていて代わってほしいけれど、自分がやるしかないからやるというような。

 

 

人に分ける前に自分を満たす

我々は誰かのために何かをすることを日常的にしてきたと思う。けれど、それは自分が満たされているときでなければ不可能なのである。自分の喉が潤っているときでなければ人に水は与えられない。たとえその場では与えられても後に残るのは僻みなどのネガティブな感情である。それは枝葉を広げ、やがて自分では対処できない大きな問題になる。

 

だからこそ、『自分を満たす』という行為が大事になってくる。これは『自分ではないもの』から『自分のもの』に変えていく作業。今の環境は必ずしも自分が選んだものではないかもしれない。けれど、一度嫌なものが目に付くと粗さがしに没頭してしまうのもまた事実である。簡単ではないけれど、いいところや好きなところを探す。人間を相手にしてこれをするのは難しい。だからまずは環境に対して好きなところを探すのだ。きれいなものが好き、ナチュラルなものが好きという風にシンプルなことから。

 

 

『完璧』は存在しない

私は何においても完璧にこなせない。だから人にもそれを求めないようにしている。だが、気を抜くと『あれができていない』『これが違う』と感じてしまう。完璧という、『存在しないもの』を人にも、そして自分にも求めないように日々心掛けているし、失わないでいきたい。

言語化のツール

昔使っていたものに大人になってから触れると不思議とわくわくするようなことがないだろうか。絵の具の香り、竹馬やあやとり、粘土など。私は原稿用紙や鉛筆に特にドキドキする。また、大人になったことで当時と違う使い方を見つけられると心が高鳴る。今回はそんな、当時とは違った原稿用紙の使い方について書いていく。

 

 

原稿用紙という提案

私は言語化を日々大切にしている。それが自分を知るうえで最も確実だと思うから。何かを見て、うれしく感じるのか悲しくなるのか。どうしてそう思ったのか。それを考えることは自分の根っこの部分やコンディションを知るうえで欠かせない。

 

そんな言語化を図るツールの一つに原稿用紙は有効かもしれない。まだ導入したわけではないため、あくまでも想像の範囲内で原稿用紙に感じることや期待を述べていく。導入後、実際に使ってみた感想を投稿して変化を探していきたい。

 

言語化向き

原稿用紙は『伝える文章』ではなく、『言語化』にこそ向いていると思う。『伝える文章』の場合、文章のかたまり丸ごと入れ替えなどの作業も出てくるため手書きでは手間が多くなる。『言語化』も多少の整理は必要なものの、原稿用紙の行間のスペースで事足りる。スペースがあることで、後から見直した時の感想も書き加えられる。言語化のツールとして用いるので、フィードバックは重要だ。

 

さらにそのあとその一枚を眺めることで当時の自分を知ることができる。内容はもちろん、字のきれいさ、フィードバックにより得たものなど。特に字のきれいさは感情がそのまま出る。

 

原稿用紙への期待

これまで言語化専用のノートを3冊使い切って思うこと。それは、「使い切ったとき気持ちいい!」ということ。紙独特のその達成感が好きだ。原稿用紙に書くことを一か月続けると、「こんなに書いたんだ」とその枚数から達成感を得ることができるだろう。その快感により言語化する時間や言語化自体の質が上がっていけばいいと思う。