苦痛が私を育てる
「苦痛」はチャンス。
その「苦痛」は教えてくれる。何を好み、何を好まないのか。それは向き合わないと見えてこない。
では向き合うとはどういうことか。
苦痛だと感じたときにその場から立ち去ることである。
ただし、それは勇気がいることでなかなか実践できないものである。実践できずにいると小さなストレスを育ててやがて大きなわだかまりを生むことになる。
時々デイケアで苦しくなる。自己主張が強く、いつも自分の話をする女性がいる。その人と話をしているときは私の話を全くできない。相手の話がずっと続いて、私が話そうとしても途中で相手の話にされてしまう。
彼女が自分に自信があるのは伝わってくる。それが彼女の魅力だと思う。だが、それだけでは関わるのが苦痛だ。
「私も話したい」
これは今まで自分で気づかなかったことだ。
ここで立ち去る選択をする必要がある。自分がリラックスできる場所、自分を大切にできる場所を自分で作る。
私にはまだその勇気がない。
離れたいけど離れるのが怖いというジレンマを抱えている。けれどそれも自分を受け入れながら人と関わっていく上で必要なステップなのだろう。
チャットとのかかわり方を見直す
私はチャットとの相性が悪いのだといつも思う。特にグループでのチャット。一度会話が始まると集中して気づかないうちにつかれる。1週間や1か月はまるとそのあと必ず動けなくなるのだ。やらなければいい、と自分でも思う。けれど体は動かないが頭は働く、そんな時期は誰かと接したくなるのだ。
夢中になる原因として、会話そのものを楽しんでいるからというものもあるが、会話の途中で離れてはいけないという無意識下での義務感がある。だが離れる際には一言断ればいいし、私が急に返事をしなくなったとしてもまた別の人と雑談するだけなのだ。時折、チャットに張り付いている自分を俯瞰してさみしくなる。
スマホ時間が長いほど調子が悪くなることはわかっている。そのため以前から通知はすべて切っている。今後はそれに加えて、少しでも疲れてきたと思ったらすぐにスマホの電源を切る習慣をつけたい。そしてチャットに使う時間を一日2時間未満まで抑えて1人の時間を楽しむ余裕を持てるようになりたい。
『大切にしているもの』が違うからこそ...
ただの雑談のつもりなのに過剰なアドバイスをもらったり、1に対して10あるいは100の返事をもらって辟易する場面があるかもしれない。私自身そういうことが多いので自分自身がそうならないようにと気を張る毎日です。
自分語りに聞こえる相手の言葉も相手なりの信念、好意(ありがた迷惑なこともありますが)があってこそなのもわかるので今回そこを自分なりに考えました。
相手にとっての『あなたのため』があなたにとっても『あなたのため』であるとは限らない。あなたが愚痴を漏らした時に相手がいきなり「イチゴが食べたい」ということはない。つまり、相手が発する言葉は相手なりに『あなた向け』にチョイスされたものなのである。
あなた向けの言葉を全て受け入れていたらすぐに飽和状態になり、あなたは壊れてしまう。自分のためにならないと感じたらその人やその情報から離れる勇気が必要。いきなり離れるのが難しければ『時間』『頻度』『手段』などで少しずつ制限をかける。離れるなり、受け流す力をつける。
あなたと相手では環境も、経験も、状況も、思考もすべてが違う。これらが違うということは『大切にしているもの』が違ってもなんらおかしくない。『大切にしているもの』が違えば発する言葉や表現が違う。互いに許容できない部分も出てくる。その違いは存在するべきで無理になくす必要はないのである。
今マイクを持っているのはだれですか?
『話を聞いてもらえた』という感覚は楽しいコミュニケーションにおいて何よりも重要である。もしも、その感覚がないと一緒に話しているのに『会話』ではないと感じる。満たされない気持ちになる。さらには人といるのにさみしく感じることだろう。『話を聞く』こと自体が相手の存在を認めることでもあるからだ。
自分の言葉に対して『相手が主語』の言葉で返される。よくあることだがこの時自分の言葉を相手はキャッチしていないのである。コミュニケーションはしばしばキャッチボールに例えられる。この場合自分の投げたボールを相手がキャッチする前に相手は自分のボールをこちらに投げている。
以下のようなケースを例に挙げる。
A「こないだここのお店行ったんだよね」
B「(私は)忙しくて外出できないや」
この形だとキャッチボールにはなっていない。Aはなんとなく満たされない気持ちになるだろう。
A「こないだここのお店行ったんだよね」
B「おいしそうだね。時間できたら私も行きたい」
こう変化させることで相手の言葉を一度受け止め、さらに表現も柔らかくできている。
スムーズな会話には相手の言葉をキャッチして返すというプロセスが必要である。唯一の正解はない。このプロセスを経ずとも楽しめる関係の人もいるだろう。その上で、くく会話はマイクのようなものと考える。誰かがマイクを持っているときはかぶせてはいけないし、マイクを取り上げてもいけない。
『期待しない』というストッパー
人間関係での悩みについて、『期待しなければいい』というアドバイスをもらうことは多い。けれどもそれは容易ではないし、人によってはそれは冷たいと考える人もあるかもしれない。
本投稿では『他人に期待しない』ということについて、それが互いを守ることにつながると考えていく。
『他人に期待しない』ということの大切さは理解できる。何かを残念に思ったり悔しがったりする時、『それだけ期待していたのだな』とわかるから。その気持ちの大きさにつらくなることもある。それならば、その残念だとか悔しいだとかの気持ちを小さく済ませるには『期待しない』のが1番なのである。
けれども『他人に期待しない』ということが感覚としてよくわからない。『頼んでいたのにしてくれなかった』と明確なものから、『普通本人にそれは言わないのに言った』という不明確な期待まである。『期待しない』が分からないほどに私は無意識下で期待しているのかもしれない。
そもそも『他人に期待しない』と主張する人によっても期待の度合いは異なる。そこで『(過度の)期待をしない』と条件付きで解釈すれば、『自分で人生を開拓』と言い換えられる。『期待』とは行き過ぎれば『監視』『支配』に変わる。極端な表現かもしれないが、『こうするべきなのにあの人はしない』という思考は支配である。そして、その『~すべき』というレールに乗せるために監視するようになる。
これを防ぐための『期待しない』であれば、『他人に左右されない』ということになる。『期待しない』とはある種ストッパーなのかもしれない。
他人の言動に影響されないことは大事である。自分の軸を持つことになるからである。『期待』とは決して悪いものではない。ただ、それがとって毒になる場合、『自立』することが互いを守ることになるのである。
自分の感性を信用する
自分の感じ方を否定されるようなことが続くと『自分の感性は信用してはいけないのだ』と思い込んでしまう。でも本当にそうだろうか。目に見えない『感性』というものは他人の評価によりその価値を失うものなのだろうか。
本投稿では『感性』を『心の声』に表現を変えながら、自分の感性を信用することについて考えていく。
自分を否定する
ふとした時にシチュエーションの違う嫌な記憶がよみがえることがある。それは人前で叱責された記憶のようにつらいものから、なんとなく会話がかみ合わず恥ずかしかったという些細なものまで様々だ。それらの共通点は『自分を否定している』という点だ。『自分はおかしい』『これではいけない』『人と違う』と強く思い込んでいる。自分を否定し続けるとあるものが小さくなる。
『自分を否定』の常態化
それが『心の声』だ。
感じているものは事実。なのに自分以外にその感覚を否定されることがしばしばある。すると自分の感覚が自分でもわからなくなる。そうすると『自分はこう感じる』という思考を持てず、『自分の感じ方はおかしい』という思考が先に出るようになる。最終的に『自分』と『感覚』の間に壁ができ、感じ取ることが難しくなる。自分で自分を否定する癖がついてしまうから。
感性を守る
小さくなった『心の声』を大きくするのは難しい。まずは声を聞く耳を養う。少しずつ聞こえるようになったら、その声を守るようにする。自分の感覚は他人にはわからない。同じものを見ても聞いても他人とは感覚が違うから。だから互いの見え方聞こえ方を『おかしい』ということはできない。それを『感覚』でわかっていく。守られるべきは自分も他人も同じなのである。
『わからないものである』と知っていれば互いに否定批判することもない。感性に正解はないのだから。
それは誰の悩み?
『親友が悪い男にお金をだまし取られているのに本人は彼を信じ込んでいる』
こんな時あなたはどう考えるだろう。親友が経済的に破綻してしまう、かわいそうな思いをさせたくない、とあなた自身も深く重く抱え込んでしまうかもしれない。けれど本来解決するべきは親友自身だ。
困っている人を助けたいと思うのは何らおかしくない。ただし『助けたい』という思いと『代わりに抱え込む』というのは意味も影響も大きく異なる。
今回は代わりに背負い込んでしまう私たちが向き合うべき課題について書いていく。
『代わり』にはなれない
出口が見えないほどの悩み事を抱えているときはたいてい人の悩み事も抱えている。『自分の悩み+人の悩み=自分の悩み』と考える場合もあれば他人の悩みがそのまま自分の悩みにすり替わってしまうときもある。厄介なのがこの思考がほぼ無意識化で行われているという点である。なぜ苦しいかというと、『代わりに解決することはできない』からである。できないことをそれでも無理にやろうとして苦しくなる。
悩み事の持ち主
この場合、自分と他人を区別する必要がある。具体的にどうすればいいかというと、悩んで苦しい時は1度立ち止まる。そして『これは誰が解決するもの?』と問うのだ。自分か、自分以外か。ぐちゃぐちゃでわからない場合は紙に書く。紙に悩み事を書くと『誰が困っているのか』が自ずとわかってくる。その人こそが『本来解決する人』である。大抵は、『その人が困っているからあなたも困っている』という状況のはずだ。
自分の本当の課題
問題を代わりに解決することはできない。ゆえに代わりに抱え込む必要はない。でも見て見ぬふりはできないと思ってしまう時。その時は『自分を満たしてから助ける』ということを大事にする。自分に余裕のない時に人を助けることはできないから。自他を区別する余裕を持つ。これからも自分が自分として生きていくために自分にしか解決できない課題である。